小松和彦『異界と日本人 絵物語の想像力』角川選書、2003年 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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「 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」 意:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。 陸奥から戻ったころ、まず俊成に加判を依頼した自歌合『御裳濯河 みもすそがわ 歌合』が、やや遅れて定家が加判した『宮河 みやがわ 歌合』が成り、これを伊勢の内宮 ないくう ・外宮 げくう に奉納したが、自身は河内 かわち の弘川寺 ひろかわでら (大阪府南河内 みなみかわち 郡河南町)で病み、文治 ぶんじ 6年2月16日、「願はくは花の下 した にて春死なむそのきさらぎの望月 もちづき の頃 ころ 」というかねての願いどおり、同地に入滅した。

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真言宗に帰し、吉野の大峰 おおみね で山伏 やまぶし 修行をもしているが、僧綱 そうごう をもたず、上人 しょうにん とよばれる生涯を送った。 「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」 崇徳院 [ ] ある時(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)がの勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ 山家集)。

空仁 くうにん や、のちに同行となった西住(源季政 すえまさ )などとともに、出家以前から和歌に親しんでいたが、以後はいよいよ詠歌に励み、信仰と詠歌が草庵 そうあん と行脚 あんぎゃ に終始した生涯の支えであったとみられる。 家集『山家集 さんかしゅう 』『聞書 ききがき 集』などのほか、弟子蓮阿 れんあ (荒木田満良 みつよし )の聞き書きした歌論書『西行上人 しょうにん 談抄』、『宮河歌合』への加判を求めた際の消息文である『定家卿 きょう に送る文 ふみ 』がある。 逸話 [ ] 和歌山県紀の川市の西行法師像 出家 [ ] 出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)をから蹴落として家を捨てたという逸話が残る。

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「西行峠」 鴫立沢 奥州下りの折、の旧( における、下の大磯宿)の西端( 江戸時代における淘綾郡西小磯村付近、幕藩体制下の西小磯村付近、における餘綾郡内)のを流下するにて 、下記を詠んだと伝えられる。 「心に恋慕を懐 いだ き、仏を渇仰 かつがう す」。 1首 1首 2首 2首 8首 計14首 秋 初秋の心をよめる 秋はきぬ年もなかばに過ぎぬとや荻吹く風のおどろかすらん (千載230) 【通釈】「秋になった。

【本歌】能因法師「後拾遺集」 心あらん人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを 【参考歌】藤原季通「千載集」 心なき我が身なれども津の国の難波の春にたへずもあるかな 釈教 提婆品の心を なにとなく涙の玉やこぼれけん峰の木の実をひろふ袂に (新続古今837) 【通釈】何とはなしに、涙の滴がこぼれただろうか。

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「つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて」 意:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。 「嘆けとて月やは物を思はするかこちがほなるわが涙かな」など一連の恋歌は激しい恋愛体験もあったらしいことを思わせるが、出家以前妻子がいたことは確かであろうと考えられる 出家後は嵯峨 さが や鞍馬 くらま の奥などにこもり、また伊勢 いせ に下向しているが、のちには高野山 こうやさん を本拠とする聖 ひじり の生活に入った。

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鳳棲原野 [ ] 龍朔三年(663年)十月玄奘譯完最後一部佛典《》之後感慨說:「向在京師,諸緣牽亂,豈有了日?」玄奘於元年二月五日深夜、六日子時(664年3月8日0~1時)圓寂 ,享壽六十二歲。

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30代前後に、陸奥 みちのく の歌枕 うたまくら にあこがれ、藤原実方 さねかた や能因 のういん の足跡を慕って、最初の陸奥行脚を試みた。 心なき 身にもあはれは しられけり 鴫 ( しぎ ) 立 ( た )つ 澤 ( さは )の 秋の 夕 ( ゆふ )ぐれ 《1:一般的解釈》 角括弧[ ]内は補足文。 (あくまで日本仏教の文脈における後世の解釈) 伝説 [ ] 『』に西行が「を作ろう」としていた記述がある。

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『新訳 西行物語』 訳 選書版: 2008年• 代々六衛府 りくえふ の武官で検非違使 けびいし などを勤める武勇の家であった。

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